10 件の資料が見つかりました。
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広報こしみず昭和50年7月号 広報こしみず昭和50年7月号
年を人々と四季の自然に接してきた著者。大空襲の時の未発表日記から七十一歳の春まで、書き継がれた一二七編の珠玉随筆。○花天女平岩弓枝女性の真の幸福とはなにか!天性の資質に恵まれ、スターの座を得た実在の女優をモデルにしいま話題の本図書館だより○...
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広報こしみず昭和50年8月号 広報こしみず昭和50年8月号
ていたとき、養家があった恵須取がソ連軍の空襲を受けたと聞き、急いで帰郷翌十日に着きました。しかし一面のがれきの山で、丘の上にあった養家まで行く事が出来ず、同じ恵須取市内の神山さん宅に身を寄せました。八月十六日、ソ連軍が改めてきたので、背後に...
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広報こしみず昭和58年3月号 広報こしみず昭和58年3月号
うの友達のようでした。そのおひなさまは、空襲でやけてしまいましたが、おかあさんにはわすれられず、よし子が生まれても、おかあさんの気に入ったおひなさまはなかったので、よし子の家では、よい年、色紙に夫婦びなを書いて飾るのでした。よし子は、学校の...
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広報こしみず昭和60年5月号 広報こしみず昭和60年5月号
、看護婦二名、看護兵一名のほか海軍飛行場空襲の標機あり(にせ物かどうかまた、飛行機が二〜二送が行われていた。kmの引込線が敷設されて、建設物資や軍用物質の輸かなりの兵員が駐屯していたほか、古樋駅から約三建設中の小清水海軍飛行場には、三角兵舎...
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広報こしみず昭和60年8月号 広報こしみず昭和60年8月号
店回見まわりに来る。ところが一年生東京大空襲の日、四匹の子猫をつは見物の人だかりができている。をただで貸してくれるかわり、月一「猫は生きている」理論社身うごきできないこぶたのまわりにわれることが大きらい。学校の土地ことって何だったんだろう」...
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広報こしみず平成4年11月号 広報こしみず平成4年11月号
道はたくさんの「ナラ」▲昭和18年7月の空襲の3日前の写真3列目右から5番目が西谷さん(西谷喜代松さん所蔵の写真から)「ミズナラ」「ニレ」「ヤチダモ」などの木を縫って歩くような道でした。その中でも、見上げる「ナラの大木」が現在の「ユースホス...
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第三編 行財政 第三編行財政
〇mの滑走仮に、もし終戦が遅れていたら、空襲はもっと激しいものに路一本と二七機分の駐機用掘込み掩体壕、及び滑走路との誘導なっていたであろうし、戦後占領軍の進駐もあったであろう。路や通信施設なども造成され、おおむね八五%の仕上がりをみ、滑走路...
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第四編 産業・経済 第四編産業・経済
がて思い出の作物となって昭和二十年七月の空襲で被災している。しまった。戦後は自由耕作となったが、やがて化学繊維工業(いわゆる大正九年(一九二〇)に二七〇町歩の耕作で初化繊)の台頭とともに、亜麻工場は次々に各地で閉鎖され、本亜麻顔となった亜麻...
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小清水町年表 小清水町年表
道庁長官となるアメリカ空軍本道に侵入し、空襲、艦砲射撃が加えられる戦争終結の詔書を放送、日本の降伏により第二次世界大戦終わる連合軍、本道に進駐する持永義夫、第二八代北海道庁長官となる戦災疎開者の集団入植始まる占領軍、北海道地方軍政部を札幌に...