10 件の資料が見つかりました。
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広報こしみず昭和43年10月号 広報こしみず昭和43年10月号
ている。この頃すでに記録上の住民第一号の男山イヤトムタが浦士別川のほとりに居住し、明治十八年塚本命助は濤沸川渡守を申付けられ、翌明治十九年網走根室間の道路が開通し、フレトイ駅逓が設置され塚本命助が取扱者となつた。これが記録による和人定住者の...
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広報こしみず昭和48年4月号 広報こしみず昭和48年4月号
いま勝つ物の主義)三浦良三著資料館では、男山イヤトムタ翁(小清水最初の住民で神浦に碑があります)遺品をはじめ、開拓当初の日用生活品(ランプ、炉カギ、食器など)のほか、今では見る事のできない農耕用機具、林業関係の道具類など五百点余が収集保存さ...
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広報こしみず昭和48年5月号 広報こしみず昭和48年5月号
広報四月号に登載の、小清水最初の居住者「男山イヤトムタ」が定住した所であり、当時、食料とした獣骨や貝殻なども多く採集されています。神浦九号遣跡神浦遣跡の南方に隣接した奥山儀助氏の所有地にあり、出土遣物として、北筒式土器・輝緑岩製石斧、黒燿石...
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広報こしみず昭和59年7月号 広報こしみず昭和59年7月号
のび豊かな未来への前進の糧小清水町百年史男山イヤトムタであるといわれている。イヤトムタは身長六尺豊かの偉丈夫で、勇猛かつ怪力で、熊と組討ちして捕えたり、あるいは射止めたもの一〇〇頭余と語り継がれており、住居のそばにイナウサン(幣場)を設け、...
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広報こしみず昭和60年8月号 広報こしみず昭和60年8月号
われています。なお、ここには明治初年から男山イヤトムタが定住していたので、住居やイナウサン(幣場)の跡もみられ、食糧にしていた獣骨や貝殻なども多く採集されています。よんでほしいほん(21)...
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第二編 開拓 第二編開拓
)に、明治初年に狩猟をしつつ来住したのが男山イヤトムタである。クマ狩りやサケ漁に便利な南七号付近に住み、漁猟で生活を立てていたが、明治三十四、三十五年二九〇一、〇二)ごろ、東藻琴原野殖民地区画の測量隊に協力し、その後旧土人給与地の給付を受け...
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第三編 行財政 第三編行財政
の川で、イチャンパオに合流マナイの俗称。男山イヤトムタが住居を構えた川に由来してテホロクチナイポンウラヤシペツの枝川で、開拓初期水力にいるから、これは比較的近代のものである。よる精麦精粉の臼を設けたので、「バッタの沢」ともいう。アオシマナイ...
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第四編 産業・経済 第四編産業・経済
駅逓所に牧場地貸付け駅逓所関係とは別に、男山イヤトムタが神浦地区で、多いときは三〇余頭を飼育していたという記録があるが、これが私有馬の最初ではないかと思われる。当時の馬はいわゆる道産子で、馬格も悪く、放し飼い(放牧)するのが常で、繁殖は牧野...